「ごはんは笑顔」「ありがとうはこころのあつあつごはん」
1話から何度も引用されてきた、ゆいイチ推しのおばあちゃんの名言「ごはんは笑顔」
そして、ゆい自身による「ありがとうはこころのあつあつごはん」。
どちらの言葉にも、短いフレーズの中に幸せに生きるためのエッセンスが濃縮されています。
本記事は、そんな2つの格言と、ゴーダッツ様について思うところをまとめてみたものです。
※本記事はデパプリ本編を全話視聴された方を読者に想定しております。
ネタバレにはくれぐれもお気をつけ下さい。
デパプリ全45話は、ABEMAプレミアムにて絶賛配信中です。
ABEMAの公式サイトはこちらから
ごはんは笑顔
上北ふたご著『デリシャスパーティ♡プリキュア プリキュアコレクション』 講談社 より引用
ごはんは笑顔です。
誰だってお腹が空いているときにおいしいものを食べれば幸せな気分になる。
辛いことがあって心が沈んでいるときも、生きていれば腹が減る。そして、うまいものを食べればやはり幸せな気分になる。
望む望まぬにかかわらず、生き物はそのように作られています。
食事が喉を通らないほどの極限状態を除き、ごはんはいつも問答無用の幸せを届けてくれます。
だから「ごはんは笑顔」なのでしょう。
うまいものを食えば私たちは無条件で笑顔(幸せ)になれる。
また、プリキュアと全く関係ないですが、「天皇の料理番」で有名な料理人の秋山徳蔵も、生前にこんな言葉を残しています。
なんでも、これはうまい! と情熱をもって食べられる大好物を持っている人は、幸福なのじゃないか。別に何も食いたくも飲みたくも――なんてことになったら、人間まことに寂しいことじゃないか――と。
秋山徳蔵著『味の散歩』 中公文庫 より引用
いつ食べても「これはうまい!」と思える好物を持っている人は、それだけで幸せであると。
至言すぎますが、これも根っこは「ごはんは笑顔」と同じですよね。
あと、「食べる Happy」だけじゃない、「作る温もり」も。
今日は何を食べようかと食材を物色しているときのワクワク感、作業中の没我的な心地よさ、美味しく作れたときの達成感や満足感など、誰しも一度は何かしら経験したことがあるはず。
料理は「食べる」だけじゃない、「つくる」ことも元来楽しいものなのです。
笑顔、幸せは遠くにあるものではない。それは普段の食の中にあふれている。
「ごはんは笑顔」は、そんな日常に溶け込んだ素朴な幸せの味を改めて思い出させてくれます。
ありがとうはこころのあつあつご飯
私たちをいつも幸せにしてくれるごはん。
そして、そんなごはんは、無数の「ありがとう」からできています。
ごはんは、ごはんを作ってくれた人、作り方を伝承してくれた先人たち、材料を運んでくれた人、材料を運ぶための運送機器を作ってくれた人、などなどの古今東西にわたる無数の人々と、そして、何よりも食材として犠牲になった生命の賜物です。私たちはそんな尊き賜物を毎日いただくことで、今日までなんとか命をつないでこれています。
今日まで生きてきた、それだけで既に十分に恵まれてきたといえるでしょう。
だから、「ありがとう」を忘れてはいけない。
そして「ありがとう」は、私たち自身をも勇気づけてくれる言葉でもあります。
ありがとう、あたしは1人じゃない
ありがとう、どんなに苦しいことがあっても
ありがとう、自分をしんじて
ありがとう、笑顔で歩いていけるその勇気をくれる
ありがとうには、そんな力がある
デリシャスパーティ♡プリキュア 第44話 から引用
ありがとうの心で世界を見渡せば、私たちはみな一人ではない、世界は自分の味方で溢れていることに気づくはず。そして、いまは亡き大切な存在からのあたたかい想いにも、時空を超えて気づくことができるはず。
そうした気付きは、きっと、心に暖かな勇気と活力をくれることでしょう。
招き猫に蓄積されていたほかほかハートの大量暴露をきっかけに、ゆいが実感した「ありがとうはこころのあつあつごはん」。この言葉にはそんな意味が込められているのだと、私は思っています。
「ありがとう」を忘れた大人たち
最後に、ありがとうを忘れた大人たちについて。
これは、ブンドル団の方々。特にフェンネル改めゴーダッツ様。
彼には、「自分は恵まれている」という自覚は微塵もありません。
その真逆です。
「自分は奪われた被害者である」と、彼は強く思っています。だから自分も奪っていのだと。
これは軽々しく賛同しかねる、というかしてはいけない類の思想である気がしますが、
でも、彼の言い分もわからないことはないです。
これがそっくりそのまま彼の被害妄想だとも思いません。
なぜだ…なぜわたしのものにならない! わたしをえらばないー!
デリシャスパーティ♡プリキュア 第44話 から引用
彼の慟哭に、一種の苦い共感を誘発させられてしまうのは私だけでしょうか。
これは、私たちが生きる上で何度も直面する煩悶と、本質は同じではないでしょうか。
現実は「食うか食われるか」の競争社会であるということも事実です。
私たちの多くは子供から大人になるにつれ、過酷な競争の渦に呑まれることを余儀なくされます。
受験に就活に昇進に、果ては恋愛まで。人より少しでも良い学校、少しでも良い就職先、少しでも良い役職、少しでも良いパートナーに「えらばれる」ために。
かような絶え間なき闘争の中で生きていたら、いつの間にか彼のような思想に染まってしまっても、まったくおかしくはないでしょう。
私は奪われた!幸せは競争で獲得するもの(奪うもの)だ!
「ごはん」にもそういう側面があります。
私たちは、自分たちの「笑顔」のために他の生命の「笑顔」を奪っている。
これは紛れもない一つの事実です。
我々は「恵まれてきた」だけでなく、「奪ってきた存在」であることも確かです。
しょせんこの世は弱肉強食。
だから、ゴーダッツ様の思想も、一面としてはこれはこれで正しいのかもしれません。
ですが、この競争一辺倒の思想の先に少なくとも幸せはないでしょう。
最後に待ち受けるのは恐らく惨めな破綻です。
そんな哀れな彼(そして私たち)が救われるために第一に必要なこと。
それは競争に勝ち抜くことではなく、「ありがとう」を知ること。
「自分は奪われてきた」から「自分は恵まれてきた」への発想のシフトです。
そのための、プレシャスによる「ありがとうはこころのあつあつごはん」。
ジンジャーさんを大切に思っているあなたなら、ジンジャーさんの想いを受け取れるはずだよ!
もう会えなくても交わした言葉から思いは受け取れる
デリシャスパーティ♡プリキュア 第44話 から引用
故人を思慕し、故人から想いを汲み取ろうとし続けてきたプレシャスだからこその言葉。
恐らく「ごはんは笑顔」だけでは、競争主義者の彼の心を動かすことはできなかったでしょう。
「ごはんを奪って全人民の笑顔も独占する!なぜなら私は笑顔を奪われた被害者だから!」
というモチベでレシピッピ集めをしていた彼に、この文句は届きません。
彼にはまず、「そもそもあなたは奪われてないよ!」「あなたは恵まれた存在だよ!」ということを知らしめる必要があったのです。
そして、第二に必要なこと。
それは、競争によらずとも得られる幸せはたくさんある、
というかそっちの方が本質であるということを思い出すことです。
「ごはんは笑顔」の出番です。「ごはん」も見方によっては立派な収奪物ですけど。
最終話の冒頭、プレシャスからフェンネルに分け与えられたおむすびはまさにその象徴。
奪ったおむすびよりも、分け与えられたおむすびのほうが遥かにおいしい。
少年時代の彼は知っていたが、大人になる頃には忘れてしまっていた簡単な真理。
本当の幸せは地位や富や名声を競争で勝ち取ることでは決して得られない。
ふとした日常の、分け合う幸せから生まれる。
これはとても簡単で当たり前なことのはずなのですが、
このことをずっと忘れずに大人になるのは案外難しいかもしれないです。
子供の頃は、適当にその日その日を生きて、毎週プリキュアでも見たりしてれば、
それだけでそれなりに幸せだった。
でも、大人になってもこの種の幸せを尊重できる人というのは、案外少ないのではないでしょうか。
大人になるにつれて、いつのまにか歯を食いしばって「幸せ」「笑顔」を追い求めている自分がいる。
もちろん、幸せになるための努力を否定したいわけではありません。
ただ、別に歯を食いしばって他者を蹴落とし続けようとしなくても、生きている、ただそれだけですでに十分幸せで恵まれていて感謝すべきことなんだということを言いたいだけです。
自分にないもの、失ったものを嘆く前に、
自分がこれまでどれだけ恵まれてきたか、恵まれているかについて思いを巡らしてみる。
これが大事なんだと、よねさんとゆいは教えてくれます。
結論
「ごはんは笑顔」そして「ありがとうはこころのあつあつごはん」です。
これに尽きます。
食べること、生きることの純粋な喜びとありがたさを思い出させてくれる大切な心がけ。
子供だけじゃない、いつの間にか汚れてしまった大人たちにも。
メイン層は子供だとしても、デパプリって本当に真の意味で全年齢向け作品だと思います。
コメント