本記事は、土井善晴氏と中島岳志氏による対談本『料理と利他』(ミシマ社)を参考に、キラキラ☆プリキュアアラモード(プリアラ)とデリシャスパーティ♡プリキュア(デパプリ)を比較してみたものです。
プリアラとデパプリ、どちらも料理をメインモチーフにした両作品ですが、その思考方式は真逆かもしれません。
作為のスイーツ
プリアラのモチーフは、言わずもがなのスイーツです。
このスイーツですが、本場はもちろんパリを始めとする西洋。
そして、そんな西洋料理の代表ともいえるスイーツは、
かの地で発展した西洋型合理主義の影響を強く受けているようです。
これは「人間の理性ですべてを制御する」という理想のもと発展した思想であり、
人為(作為)というものが非常に重要視されています。
ものごとに対して人間が積極的に手を加え、これをコントロールしていく。
自分を信じ、自分の手で人生を切り開く。
そんな人間を中心とした価値観で、現代科学文明の礎となる考え方です。
そして、この人間中心的な合理主義のもとで発展した西洋料理は、
「人間が作為によっておいしいものを作りだす」
という発想を根本にしているようです。
特にスイーツはその極北といって良いでしょう。
ひまりんが口を酸っぱくして何度も言っているように「スイーツは科学」なのです。
「スイーツは科学。分量を守り正しい工程で作れば、決して裏切りません!」
スイーツは、正しい条件で「レッツ・ラ・まぜまぜ」すれば確実にできる。再現性がある。
失敗するのは条件が正しくないから、つまりは作り手の責任です。
おいしいスイーツが作れるか作れないかは、すべてパティシエの腕次第。
換言すると、スイーツは、作り手ありきの料理であるといえます。
他力の日本料理
対して、デパプリのモチーフはもっと広範な料理そのもの。
ですが、そのラインナップは庶民的な家庭料理・大衆料理が中心であったように思われます。スイーツのような、特別なときに食べる特別な料理ではなくて、もっと日常的で庶民的な、日々の生きる糧になっているような普段の食事。特に、庶民的な国民食おむすびの作中での存在感は絶大でした。
土井善晴氏の論によると、そんなおむすびを始めとする日本の家庭料理では、
「料理は人間業ではない」
という考え方が基底にあるようです。
中島氏との対談の中で土井氏は、日本料理について、以下のように語っています。
基本的にね、おいしいものを作ろうということは、和食では考えないんですよ。もったいないという言い方があるけれども、おいしいものはもともとおいしいから、おいしいものは美味しく食べなさい、それでないともったいない。
相手は自然ですから、おいしくないときもあるんです。それは自分の責任でもなんでもなく、あぁそういうもんなんだと、そのまま受け取ったらいいというのが、…(中略)… 誰が作っても美味しいという世界がそこにあるんですよ
「人間の作為によっておいしいものを作り出そう」という発想の西洋料理と対象的に、「もともとおいしいものをおいしく食べる」「食材の味を引き出す・調和させる」というところに、日本料理では力点が置かれているようです。
いわば、日本料理は、作り手ありきではなく、食材ありきの料理なのです。自然ありきの料理といってもよいかもしれません。
人間がコントロールできる範囲には限界がある、人間が頑張るのではなく、自然に頑張っていただくことで、美味しい料理ができあがるという、自然中心主義、仏教の言葉を借りるならば、極めて「他力」的な考え方です。
作為のプリアラ・他力のデパプリ
作為主体の西洋料理と他力主体の日本料理。
同じ料理と言っても、背景とする文化的土台が異なれば、そのベースとなる価値観は大きく異なってきます。
そして、プリアラとデパプリの間でもある程度は同じことが言えると思います。
つまり、プリアラは人為を重視する西洋型合理主義、デパプリは他力を重視する日本型自然主義に、それぞれ価値観の軸足を置いているとみることができます。
いわば作為のプリアラ・他力のデパプリという見方です。
例えば、プリアラ世界において、スイーツの出来はキラキラルなるエネルギーの含有量により決まるものでした。
美味しいスイーツを作ることができるパティシエというのは、このキラキラルを注ぎ込むのが上手な人、そして「伝説のパティシエ」たるプリキュアは、このキラキラルを自在に制御できる存在であるというところにその特質性があるのでした。
スイーツの美味しさを左右するのは私たちの「レッツ・ラ・まぜまぜ」しだい、これがプリアラに通底する料理観であり、人為を重視する西洋合理主義的な考え方と言えるでしょう。
対して、デパプリ世界において、料理の味の鍵を握っていたのは料理人でもプリキュアでもなく、レシピッピの機嫌。
料理人がいくら手をかけようと、レシピッピの機嫌が悪い日は絶対においしい料理は生み出せないし、その逆も然りです。
プリキュアは「レシピッピを目視できる戦士」以上でも以下でもなく、料理を美味しくするために直接的にできることは、せいぜい彼らのご機嫌をとることくらいしかありません。
料理の美味しさは人為を超えたところにある、デパの料理観は極めて他力的な発想です。
また、両作品の「世界への向き合い方」を比較すると、プリアラは「マイナスの世界をプラスに変えていくために、「大好き」を原動力に挑戦し続ける」、デパプリは「世界に溢れている恵みにもっと気付こう、感謝しよう」というところに、物語の落とし所をそれぞれ見出していました(詳しくはこちら(プリアラ)とこちら(デパプリ))。
ここらへんからも、「人為により世界を良くしていこう」という西洋型合理主義に基づくプリアラと、「自然と調和する」「足るを知る」日本型自然主義に基づくデパプリの考え方の違いが読み取れると思います。
結論
「自分の『大好き』を信じ、より良い世界を向かって前進していこう」というプリアラと、「自分がこれまで世界から受け取ってきた恵みに感謝しよう」というのデパプリ。
前者の主要な関心は未来へ向かっており、後者は過去と今現在に向かっています。
どちらも食べ物をメインモチーフにした両作品ですが、ベースとなる考え方はほとんど対極にあるといってよいのではないでしょうか。
ただ、どちらの主義が優れているとかではなく、どちらも大切な心がけなのだと思います。
感謝(ほかほかハート)と向上心(キラキラル)をどちらも尊重する、これが大事なのだと思います。
そう考えてみると、ひろ映画の「キラキラルとほかほかハートをレッツ・ラ・まぜまぜ!」は色々と感慨深い。
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